ノラ歴史の教科書とかYoutubeの歴史解説でよく見るカール5世って、何をした人だったの?



おー、なかなか難しい質問をするね。彼はここ数年Youtubeだと”アゴの人”みたいになってるけど、結構ものすごい人なんだよ。今回は彼について解説・考察していこうか。
カール5世
神聖ローマ皇帝であり、スペイン王でもあり、そして数多くの国や公国、伯爵領の君主であったヨーロッパ最強の君主。
そして現代にいたるまで数百年権威を持ち続けるハプスブルク家の最盛期を築いた人。
しかし「彼は何を成し遂げた人物か」と問われると、意外と答えに困るのではないでしょうか。
ルターに始まる宗教改革やオスマン帝国との争い、フランスやイギリスとの覇権争い、イタリア戦争など、彼の時代にはたくさんの課題がありましたが、目に見える成果はあまり残っていません。
アレキサンドロス大王やカエサルのように、どこどこを征服した!とか、そういうこともありません。
では、彼は何もできなかったのでしょうか。
その答えを探すために、まずは彼が生きた時代から見ていきましょう。
偉大な皇帝が生きた時代
カール5世が生きた16世紀前半はどのような時代だったのでしょうか。
生まれた時から持っていた広大な領土と肩書
カール5世は生まれた瞬間から広大な領土と肩書を相続する立場に生まれました。
父方の祖父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、祖母はブルゴーニュ女公マリー。
父はその二人の息子フィリップ(その美貌からフィリップ美公と呼ばれる)。
母方の祖父はアラゴン王フェルナンド2世、祖母はカスティーリャ女王イサベル1世。
母はその二人の娘フアナ(アラゴン王国とカスティーリャ王国の相続人)。
祖父母と両親が持つ超広大な領地(現在のスペイン、オーストリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランスの一部、イタリアの一部、スロベニアの一部)を、彼は相続することになりました。
相続によって彼が持った肩書は30を超えます。
本人の意思とは関係ありません。
でもカール5世は自身の意思を持ってその称号を手にしたものがあります。
それが神聖ローマ皇帝です。
この自ら取りに行った称号が、彼の人生の大きな部分を占めることになりました。
彼は相続によって得たヨーロッパの広大な領地を統治しながら、神聖ローマ皇帝としての責務も負うという人生を歩み始めます。
フランス
そんなカール5世が統治しなかった領地で大きなところのひとつはフランス。
カール5世の時代のフランス王はフランソワ1世
彼はカール5世の生涯のライバルと言われる存在です。
歴史をさらっと読むと、フランソワ1世はカール5世のやることなすことに邪魔をしているように見えます。
ハプスブルク家が管理していたイタリアの土地を奪おうと何度もイタリア戦争を勃発させたり、
キリスト教国家の敵であるはずのオスマン帝国と同盟を結んでみたり。
でもフランソワ1世はカール5世に嫌がらせをしたかったわけではありません。
彼はフランスという国の存続と繁栄という彼自身の正義に従っていたのです。
フランス王からすれば、ただでさえ自分の周りをハプスブルク家に包囲されているような状況ですから、今よりもハプスブルク家が強大化するようなことはあってはならないのです。
それを防ぐためには、宗教の枠を超えてでもハプスブルク家に対抗する必要がありました。
イングランド
カール5世が統治しなかったもう一つの大国はイングランド。
当時のイングランド王はヘンリー8世。
6人の妻をもったあの、ヘンリー8世です。
ヘンリー8世はというと、フランソワ1世ほどカール5世との対抗関係はありません。
イングランドは島国で、大陸から地理的に分かれていることからフランスほどの脅威がなかったのかもしれません。
とはいえ、ヨーロッパでハプスブルク家が強大化しすぎるとイングランドも危うい。
一方でハプスブルク家が弱体化しすぎるとフランスが強大化するからそれも避けたい。
そんな状況でヘンリー8世はその時その時で手を組む相手を変えます。
その瞬間、イングランドにとって最も利益がある立ち回りをしていたのです。
彼もまた、イングランドという国の存続と繁栄を考えていました。
オスマン帝国
ヨーロッパの外にもカール5世が対処すべき相手がいました。
オスマン帝国です。
1299年に成立したオスマン帝国は、カール5世の時代最盛期を迎えます。
そのスルタンはスレイマン1世。
スレイマン大帝とも呼ばれる優れたスルタンでした。
ヨーロッパへの遠征を何度も行い、ハンガリーの一部やロドス島を征服し、ウィーンの包囲まで行いました。
オスマン帝国の第一次ウィーン包囲の際、ヨーロッパ側で対処したのがカール5世の弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)。
ハンガリーが征服されたことによりオーストリアはオスマン帝国と国境を接することになっており、そのオーストリアはカール5世から託されていた弟が大公として統治していました。
※最初はカール5世に相続されたオーストリア大公の称号は、後に弟フェルディナントに与えられる
地中海の要衝ロドス島をオスマン帝国が征服したことにより地中海の制海権にまで影響がおよび、イスラム系の海賊による攻撃が後を絶たず、地中海での交易で富を得ていたヴェネチアなどの都市国家も打撃を受けました。
イスラム系の海賊はアフリカ北岸のアルジェやチュニスなどに要塞を築き、常に地中海を荒らしまわっていました。
ルターに始まる宗教改革
カール5世の時代、歴史的に見ても影響の大きい出来事が起きます。
それが宗教改革です。
もとはルターという一人の修道士が発表した「95カ条の論題」が発端でした。
この「95カ条の論題」は、簡潔にまとめると以下のような内容でした。
教皇は神の前の罪そのものを免罪符で赦せるわけではない。
本当の悔い改めによってのみ、神から罪は赦される。
教会は信者から金を集めるのではなく、福音を伝えるべきだ。
当時のカトリック教会は政治的・経済的な権力と富を強め、その維持と教会などの建設資金の確保のための免罪符の販売や聖職者の腐敗が広がっていました。
それに対して、免罪符の販売はおかしい、この問題を神学的に議論しよう、と学問的に問題提起したのがルターの95カ条の論題でした。
つまり、最初から教皇や教会を排除しようとしたわけではなく、教会を正しい姿に改革しようとしていたのです。
しかしこの論題は印刷技術の普及により瞬く間にヨーロッパ中に広まり、一人の修道士の意見にとどまらず大きなうねりとなりました。
教皇はルターを破門し、ルター派という派閥が誕生。
ルター自身はザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)にかくまわれ、その間に聖書をドイツ語に翻訳します。
これによりルターの思想はさらに広まることになりました。
神聖ローマ帝国の帝国会議でルター派への規制が強められようとすると、それに対して諸侯や都市が抗議(Protestatio)を行います。
こうしてルター派は「プロテスタント(Protestant)」と呼ばれるようになるのです。
このプロテスタントは最初が一人の修道士だったとは思えないほどに大きな勢力となりカトリック派と対立しました。
カトリック派であるカール5世がオスマン帝国やイスラム系海賊と戦おうと軍を組織しようとしても、プロテスタントはその度に自分たちの権利を認めることを引き合いに出すなどしました。
キリスト教世界はカトリックとプロテスタントに二分されてしまったと言えるでしょう。
中世と近世の狭間
この時代は後世、中世から近世に移っていくその狭間であったと見られています。
中世ヨーロッパは、大きな意識として「我々はキリスト教世界の一員である」というものがありました。
教皇はキリスト教世界の精神的指導者
神聖ローマ皇帝はキリスト教世界の世俗的指導者(キリスト教世界を物理的に守る役割もあった)
各国の王はキリスト教世界を構成する君主
各国の王もそこに住む人々も皇帝の家臣ではありませんでしたが、皇帝に特別な権威があるという意識はありました。
それが、この頃から徐々に変化していったのです。
これまでに見てきたように、この時期にはフランスやイングランドの王は国を優先し、カトリックという普遍的と思われた思想すらも対抗する集団が出現。
皆、キリスト教徒ではありましたが大きな「キリスト教世界」という共同体の意識が徐々に失われていきました。
それが、まさにカール5世が生きていた時代なのです。
ローマ帝国が東西に分割され西ローマ帝国が滅びたあと、西暦800年にカール大帝(シャルルマーニュ)が教皇に”ローマ皇帝”として戴冠されます。
この”ローマ皇帝”は時を経て”神聖ローマ皇帝”となります。”ローマ皇帝””神聖ローマ皇帝”は帝政ローマ時代の皇帝とは異なり、教皇、ひいてはキリスト教世界の守護者としての役割を強く持つようになります。
カール5世は困難な時代をどう生きたのか
そんな困難な時代を、広大な領地を治めながら皇帝位に就いたカール5世はどのように生きたのでしょうか。
30を超える領地の統治はもちろん、神聖ローマ皇帝としてキリスト教世界の秩序を守る仕事がありました。
しかも30を超える領地の中には大国スペインも含まれていました。
平時の統治だけでもその大変さが伝わってきますが、前章で話したようにこの時代は課題が満載でした。
大国スペインの統治
まずはスペインの統治から。
カール5世はカルロス1世としてスペイン王に即位しましたが、即位したその時からスペインの統治は困難を極めました。(混乱するので、この記事ではカール5世に統一しています)
カール5世はフランドルのガン(現在のベルギー)で生まれ育ち、弟のフェルディナントはスペインで育ちました。
それなのに、スペイン王にカール5世、オーストリア大公にフェルディナントが即位したのです。
理由は、スペインの相続順位がカールが1位だったから、です。
姉にエレオノールがいましたが、完全な長子相続ではなかったようです。
スペインの空気の中で育ったフェルディナントはスペインの市民たちからも人気でした。
そのためカール5世がスペイン王に即位すると決まると大きな反発が起きました。(その不満が後にコムネロスの反乱となる)
祖父でアラゴン王のフェルナンド2世も、ハプスブルク家がスペイン王にまで就くことに難色を示していたとも言います。
そんな中アラゴン王フェルナンド2世が亡くなり、その時点で母方の祖母カスティーリャ女王イサベル1世も亡くなっていたため、カール5世の母フアナにカスティーリャ・アラゴンの両王位が引き継がれました。
しかしフアナは病弱のためカール5世が共同統治者として、統治を始めることになります。
スペイン統治は波乱の幕開けでしたが、徐々にカール5世はスペイン市民に受け入れられていきます。
側近にスペイン人(特にカスティーリャ人)を据えたり、自らカスティーリャ語を学び話せるようになるなど、彼自身が行動を変えたことも大きいでしょう。
それはスペイン市民にも理解され「外国育ちの外国人君主」から「スペイン王のカルロス1世」という意識に変わり、カール5世の王権は安定したとされています。
ルター問題
ルターが教会に95カ条の論題を掲げたのは1517年。
カール5世が神聖ローマ皇帝に即位する2年前で、カール5世は弱冠17歳。
19歳で神聖ローマ皇帝に即位したカール5世の目の前に、ルター問題が仁王立ちしていたことになります。
即位する前から顔を出していた”モグラ”でした。
そしてこのモグラは、人生を通してカール5世の目の前に顔を出し続けます。
叩いても、叩いても引っ込まない。
キリスト教世界の守護者たる神聖ローマ皇帝であり、敬虔なカトリックのカール5世は、ルターの主張を手放しに容認するわけにはいきませんでした。
1521年、21歳になった若き皇帝は、教皇に破門されていたルターを帝国議会に召喚し、直接尋問します。
著作や主張を撤回するよう求めますが、ルターは拒否しました。
それに対して帝国外への追放とルター派の禁止(ヴォルムス勅令)が言い渡されましたが、有力諸侯のザクセン選帝侯フリードリヒ3世によってルターがかくまわれたため、この決定は完全な遂行とはいきませんでした。
ルター派はそれからどんどん勢力を増していきます。
その間、カール5世が面倒を見るべきキリスト教世界では、別のモグラたちがどんどん顔を出していきます。
ルター派の勢力拡大を防ぐことだけに注力することはできなかったのです。
それどころか、別のモグラであるオスマン帝国の問題が顔を出し、カール5世がそれに対抗するためにキリスト教世界を動員しようとすると、プロテスタントのドイツ諸侯たちは宗教上の譲歩を求めてくる始末。
帝国議会を招集すれば必ず議題に上がる。
カトリック教国であるフランスとも戦争しないといけない。
カール5世はプロテスタントという完全に分離した新しい宗派を容認するつもりはありませんでした。
あくまでもキリスト教世界の宗教統一を成そうとしていたのです。
だからこそ、当初はプロテスタントの対処に極力武力を用いないようにしていました。
しかし1546年、ついにカール5世はプロテスタントの同盟”シュマルカルデン同盟”との戦争に乗り出します。
これがシュマルカルデン戦争。
1547年4月24日、この戦争の結末を決定づける”ミュールベルクの戦い”が発生。
この戦いでカール5世はシュマルカルデン同盟に勝利し、シュマルカルデン戦争は皇帝側の勝利で終わります。
これで引っ込まないのがプロテスタントのモグラたち。
戦争後の皇帝による宗教統一政策に異を唱え、皇帝派からの寝返りも原因となり皇帝側は譲歩を余儀なくされます。
そしてついに1555年。
カール5世が神聖ローマ皇帝から退位する前年。
アウクスブルクの宗教和議が帝国議会で決議され、ルター派プロテスタントの存在が公式に認められることとなりました。
モグラはついに外の世界に飛び出し自由を得たのです。
イスラム教世界からキリスト教世界を守る
カール5世がルター問題に集中できなかった理由の一つ、イスラム教世界というモグラたちについても話していきましょう。
イスラム教世界という、キリスト教世界に相対する世界。
この時期のオスマン帝国のスルタンは前述のとおりスレイマン1世(スレイマン大帝)。
ただのモグラではなく、超強大なモグラでした。
彼はオスマン帝国を最盛期に導いたスルタン。
彼もまたカール5世と同様、イスラム教世界をその双肩に背負っていました。
オスマン帝国はまず、陸からキリスト教世界を脅かしてきます。
オスマン帝国は1526年、ハンガリーとの戦いに勝利し、カール5世の弟フェルディナントが統治するオーストリアに国境を接してきます。
カール5世は弟フェルディナントにオーストリアを任せていました。
つまりウィーン防衛の最前線に立ったのは弟だったのです。
1529年の第1回ウィーン包囲は弟フェルディナントが対応。
その後のオスマン帝国のさらなる侵攻に備え、カール5世はヨーロッパから軍を集めました。
しかしウィーンはオスマン帝国から遠く補給が難しいだけでなく冬が近づいていたこともあり、スレイマン1世との決戦は回避されました。
スレイマン1世はただの征服者ではなく、勝つのが難しいと判断すると撤退する判断もできる名君でした。
しかしウィーンが守られてもオスマン帝国の脅威は去りません。
海からもキリスト教世界を脅かしてくるのです。
カール5世がヴォルムスの帝国議会でルターに尋問した翌年1522年、地中海東部の要衝ロドス島がオスマン帝国によって陥落します。
これにより地中海東部の制海権は大きくオスマン帝国に傾きます。
さらにオスマン帝国は北アフリカにも手を伸ばしてきます。
元々スペインがレコンキスタを完了させてから、イスラム教徒の一部は北アフリカに逃れていました。
その一部は海賊となり、さらにその中には北アフリカのイスラム国家の支援を受けた”コルセア”(私掠船)だった者たちもいます。
カール5世は地中海におけるキリスト教徒の安全を守るべく、北アフリカに遠征に出ます。
北アフリカへの遠征は、キリスト教世界を守り続けたカール5世が生涯でほぼ唯一自ら勝ちに行った戦いと言えるでしょう。
カール5世は、元海賊(コルセア)でスレイマン1世にオスマン帝国の海軍提督に任命されていたバルバロスが支配を伸ばしていたチュニスに遠征します。
スペイン・神聖ローマ帝国(ドイツ諸侯)・イタリア諸国などの連合軍を自ら率いて進軍し、チュニスからバルバロスたちオスマン勢力を撃退。
カール5世の大勝利でした。
その後、地中海東部の制海権も取り戻し、拡大するオスマン帝国の海上勢力を押し返すべく教皇がスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合軍を組織し、オスマン帝国の艦隊に攻撃を仕掛けます。
結果は、オスマン帝国の勝利。
連合艦隊はうまく統率が取れず、オスマン帝国の艦隊に打撃を与えることはかないませんでした。
これが、1538年のプレヴェザの海戦です。
この時のオスマン帝国の指揮官は、あのバルバロスでした。
プレヴェザの海戦での敗戦を経験しても、カール5世は地中海の制海権を取り戻すことを諦めませんでした。
そこでカール5世は、1541年、アルジェにあるバルバロスの拠点への遠征を決めます。
アルジェを潰すことで地中海の制海権をキリスト教世界に取り戻そうとしたのです。
結果は大失敗。
悪天候による艦隊の損傷、補給難、現地の堅い守りに阻まれ、多くの船舶と兵士の命が失われました。
結局カール5世は制海権を奪い返すことはできませんでした。
オスマン帝国というモグラは、地中海で自由に泳ぐ権利を得てしまいました。
生涯のライバル フランス王フランソワ1世
これだけで終わらないのがカール5世のモグラたたき。
自分の主要な領地のスペイン、キリスト教世界に相対するイスラム教世界というモグラに対応しているカール5世。
そのカール5世の生涯のライバルが、フランス王フランソワ1世です。
カール5世が神聖ローマ皇帝に即位したその時からフランソワ1世はカール5世のライバルでした。
フランソワ1世も、神聖ローマ皇帝の選挙に立候補していたのです。
カール5世の前の神聖ローマ皇帝はカール5世の祖父マクシミリアン1世。
選挙はあるものの、皇帝位にはカール5世が就くだろうと想定されていたところでの対抗馬の出現でした。
結局はいくつかの要因が重なって神聖ローマ皇帝位にはカール5世が就くことになります。
もちろんこれで諦めるフランソワ1世ではありません。
なんならここから、カール5世の正義とフランソワ1世の正義が何度も何度もぶつかっていきます。
そもそもフランソワ1世からしたら、フランスはスペイン、ネーデルラント、神聖ローマ帝国、さらにイタリア方面のハプスブルク勢力に囲まれるような状況。
このままハプスブルク家が強大化すれば、フランスの安全とヨーロッパにおける立場が脅かされかねない。
これ以上、ハプスブルク家が強大化することは何としても、何としても避けたい、というのがフランソワ1世の胸中だったでしょう。
カール5世との関係性において、フランソワ1世は常にこの正義に基づいて行動しています。
まず、イタリア戦争。
イタリア戦争自体は彼らの時代よりも前に始まり、彼らの時にも続いていました。
彼らの時代のイタリア戦争は端的に言えば”ミラノを巡る戦い”です。
ミラノは地理的にも重要なだけでなく、豊かな土地。
フランソワ1世の前の王ルイ12世がミラノ公位を主張し、フランソワ1世の治世でフランスが獲得。
しかしカール5世が神聖ローマ皇帝に即位すると、ミラノは神聖ローマ帝国の封土であるという理由から、フランスがミラノから追い出されます。
フランスの西にあるスペインと、フランスの東にある神聖ローマ帝国などを自身の領地とするカール5世からしたら、ミラノは神聖ローマ帝国の封土であると同時に、カール5世にとって北イタリアにフランス勢力を定着させないためにも重要な土地でした。
さらに後にハプスブルク家が直接支配するようになると、各地に散らばる領土を結ぶうえでも重要性を増していきます。
それに囲まれるフランス王フランソワ1世からしたら、もともとフランスが請求権を持っているし、ミラノをカール5世に取られたら、ハプスブルク家による包囲がさらに強まります。
死活問題です。
カール5世の正義とフランソワ1世の正義が直接ぶつかったのがミラノだったと言えるでしょう。
生涯にわたり、フランソワ1世はカール5世からミラノを取り戻そうと、何度も何度も攻撃を仕掛けます。
それも、カール5世が他のモグラを叩いている最中に。
カール5世がルター問題に取り組み始めたとき
スレイマン1世がハンガリーに攻め入ったとき
カール5世がチュニス遠征で大勝利した翌年
カール5世がアルジェ遠征で大失敗した翌年
スレイマン1世がハンガリーに攻め入ったときのフランソワ1世は、ハプスブルク家の強大化を恐れた教皇やイタリア諸国とコニャック同盟という同盟を結んでいましたし、
カール5世がチュニス遠征で大勝利したあとは、なんならオスマン帝国と手を組んでいました。
それでもカール5世は、ハプスブルク家の勢力圏であるミラノを守り抜きました。
二人の治世においてミラノ問題は決着しませんでしたが、カール5世がフランソワ1世から必死に守り抜いたことで、二人の息子の時代、フランスにミラノなどイタリアへの主要な請求権を放棄させる、カトー=カンブレジ条約を成立させられたのでしょう。
フランソワ1世は、カール5世がハプスブルク家による統治を安定化・強大化させたいと思っていることをわかっていました。
そして、何もしなければカール5世はそれを成し遂げてしまうということも、わかりすぎるくらいわかっていたでしょう。
だからこそ、それを阻止するためならイスラム教国と手を組むことを厭わなかったのです。
でも、カール5世もそれはよくわかっていました。
自分が力を強めれば強めるほど、フランソワ1世の正義とぶつかる。
それでも、フランソワ1世とぶつかるからといって、自分がやるべきことを諦めるようなことはしませんでした。
二人は誰よりもお互いの考えていることがわかるライバルだったのでしょう。
彼らはお互いをただの敵と認識していたわけではなかったように思います。
それぞれの正義に忠実に生きた結果、ぶつかり合うことが多かった、ということなのだと思います。
だからこそ、彼らはエグ=モルト会談が実現したし、そのあとしばらく争いが起きなかったのでしょう。
エグ=モルト会談は、チュニス遠征後のイタリアでの戦いに関する教皇を交えたニースの和議に続いて行われた、カール5世とフランソワ1世の直接会談。
ここにはフランソワ1世の妻となっていたカール5世の姉エレオノールも同席し、終始友好的な雰囲気で終わります。
結局、その数年後にはカール5世のアルジェ遠征の失敗に乗じてフランソワ1世が再び戦争を仕掛けるわけですが、
彼ら二人は、個人的にいがみあっていたわけではなく、それぞれの双肩に乗せた国家を守るために、戦わざるを得なかったのでしょう。
フランソワ1世は、カール5世がヨーロッパやその周辺のモグラを必死に引っ込ませようとしている最中に、何度も何度も顔を出してくる、カール5世にとって最も厄介なモグラでした。
腐敗したカトリック教会・教皇
ここで、カトリック教会や教皇についても簡単に触れておきましょう。
敬虔なカトリックでありキリスト教世界の守護者たる神聖ローマ皇帝カール5世。
これまでの大物モグラほどではありませんが、カトリック教会や教皇もまた、カール5世を悩ませたモグラでした。
まず教会改革に関するモグラ。
ルターに端を発する宗教改革への対応を、教皇庁に求めました。
カール5世は世俗権力のトップではありましたが、宗教的なことを決める権力は教会・教皇側にあったのです。
だからこそ、ルター派やプロテスタントへの対応はキリスト教において最も位の高い会議である”公会議”で決めてほしいと、公会議の開催を強く求めていました。
しかし教皇との利害がなかなか一致せず、公会議の開催は何度も延期されます。
ようやく1545年にトリエント公会議が開催されましたが、カール5世が期待したプロテスタントとの融和・宗教統一を実現する場にはなりませんでした。
教皇庁や公会議が機能していれば、カール5世はルターというモグラから目を離すことができたかもしれません。
そしてもう一つが教皇その人。
教皇は宗教権力の最高権威。
なのに、教皇領を持っているため、世俗君主でもありました。
つまり、政治的な思惑でも動いてしまう人でした。
特にクレメンス7世はコニャック同盟に参加しカール5世に明確に敵対しましたし、パウルス3世はようやく開いた公会議の場所を、神聖ローマ帝国領のトリエントから、教皇領のボローニャに移してしまいました。
プロテスタントとの融和を模索したいカール5世にとって、教皇の影響力がより強い場所への移転は受け入れがたいものでした。
本来、キリスト教世界の守護者であるカール5世にとって教会や教皇は味方であるはずなのに、なぜか敵対してきて他のモグラの対応の邪魔をしてくる小モグラも、カール5世の頭を悩ませたでしょう。
カール5世は生涯にわたって大モグラから小モグラまで、モグラ叩きをし続けました。
なぜカール5世は”モグラ叩き”をし続けたのか
広大な領地の統治、ルター問題、オスマン帝国、フランソワ1世、教会・教皇、そしてここに書かなかった大量の小さなモグラたち。
助けてくれた家族や忠臣たちはたくさんいましたが、彼は神聖ローマ皇帝として、各国の君主として、すべてのモグラを引っ込ませることを自身の責任と感じていました。
一人ですべての責任を背負う必要はなかったように見えます。
でも彼は、自分が背負うしかないと思っていました。
その背景には、どんな思いがあったのでしょうか。
彼はローマの継承者たる神聖ローマ皇帝
彼にとって、自身が神聖ローマ皇帝であることは人生の大きな部分を占める使命でした。
カール大帝に始まるローマ皇帝・神聖ローマ皇帝はキリスト教世界における世俗的な守護者であり、カール5世は自身の人生を、その使命を果たすことに費やしたのです。
オスマン帝国という、イスラム教世界からキリスト教世界を守ること
キリスト教世界の中の分裂をなくし、キリスト教世界の統一を維持すること
帝国全体の秩序と権利を守ること
もちろん、ハプスブルク家の繁栄を求めた部分もあったでしょう。
でもそれだけでは理解できないほど、カール5世はヨーロッパ各地を飛び回り続け、時にアフリカにも渡り、モグラ叩きに明け暮れました。
自分が神聖ローマ皇帝である、という使命を常にその双肩に宿していたのです。
敬虔なカトリックとして、神の前に誠実であり続けた
皇帝だからといって、カール5世が背負った世界は、人ひとりが背負うには大きすぎる世界でした。
それでも彼は、皇帝として、各国の君主としての責任を果たし続けました。
それは彼にとって、皇帝や君主としての役割は、神から与えられた役割だったからなのではないでしょうか。
彼は幼いころから敬虔なカトリックとして育ち、生きてきました。
神の前に誠実であるべきであることと、神から与えられた役割を人生を賭けて果たすことは彼にとって大きな部分で重なったのでしょう。
だからこそ、しんどいからやめる、うまくいかないからやめる、などという選択は、彼にはありませんでした。
中世という時代の理想の皇帝であろうとした、でも時代は変わった
そして彼が神に与えられた役割である皇帝としての振る舞いは、彼が思う中世という時代の理想の皇帝でした。
それは、キリスト教世界はひとつであり、その世俗的守護者として皇帝がいる、という中世の普遍的な皇帝像です。
でも、カール5世の時代には、フランソワ1世のように国家のためならイスラム教国のオスマン帝国とも組むし、ドイツ諸侯は自分たちの宗教と領地の権利を求めていました。
キリスト教世界の一員であることよりも、自分たちの利益を優先し始めていました。
各国や諸侯たちがそのように振る舞う中で、カール5世は中世の皇帝がそうだったように、キリスト教世界全体を背負おうとしていました。
しかしカール5世が守ろうとした世界はもう、近世に移り変わり始めていたのです。
カール5世が信じた皇帝のあり方を時代が置き去りにしたとも、言えるのではないでしょうか。
カール5世はなぜ潰れなかったのか
神の前に誠実であり、その使命を果たすことにその人生を賭けたとはいえ、普通の人間では簡単につぶれてしまいそうなカール5世の人生。
彼はなぜ、潰れずにその責任を背負い続けられたのでしょうか。
使命感
やはりそれは、使命感によるものであったと言わざるを得ません。
神から与えられた役割を果たすことこそ、敬虔なカトリックであったカール5世にとって人生を賭けた使命だったのでしょう。
ルター派やプロテスタントとの融和を目指し開催を求め続けた公会議や、カール5世自らルターに尋問した帝国議会。
自ら戦場に向かい、イスラム教徒と戦ったチュニス遠征やアルジェ遠征。
ハプスブルク家の当主としてその繁栄を目指した政策の数々。
叩いても叩いても顔を出すフランソワ1世。
ヨーロッパを超え、アフリカにおいても顔を覗かせるモグラたちを叩いて引っ込ませ、キリスト教世界の秩序と権利を守る使命を、ただただ果たそうとしたのです。
家族の支え
とはいえ、カール5世にはその大きすぎる責任を背負う人生を支えてくれる家族がいました。
叔母マルグリット・ドートリッシュ。
早逝した父フィリップ美公と病弱な母フアナに変わってカール5世を育て、皇帝となったカール5世を、オーストリア大公女・サヴォイア公妃そしてネーデルラント総督としてその卓越した政治手腕を発揮して支えました。
弟フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)。
カール5世が相続したオーストリアをカール5世の存命中に引継ぎ、オスマン帝国に対するキリスト教世界における最前線を任されました。
時にカール5世と意見が食い違うこともありましたが、カール5世とは対照的なその明朗快活な性格もあり、フランソワ1世との仲介役を買って出るなど基本的にはカール5世の広すぎる帝国統治を支えました。
姉エレオノール。
ポルトガル王マヌエル1世の王妃でしたが死別し、その後カール5世生涯のライバルであるフランソワ1世の妻となります。
その立場を存分に生かし、妹マリアとともにカール5世とフランソワ1世の間を取り持つなど、武力衝突の絶えなかった二人を外交で支えました。
妹マリア。
ハンガリー、ボヘミア王ラヨシュ2世に嫁ぐも、ラヨシュ2世はハンガリーがオスマン帝国からの侵攻を受けた際に戦死しその後は叔母マルグリットの後任としてネーデルラント総督となり、姉エレオノールと共に兄カール5世を外交で支えました。
そして妻イサベル。
カール5世の母フアナの妹マリアの娘で、カール5世とはいとこにあたり、政略結婚でした。
スペイン王だけでなく神聖ローマ皇帝である夫カール5世はスペインを留守にすることが多く、その間スペインの統治は妻イサベルに任されていました。
留守の多い夫で、かつ政略結婚ではあったものの、二人の夫婦仲はとても良かったと伝えられています。
イサベルはカール5世が不在時に死産し、その後容態が悪化し35歳で崩御してしまいます。
カール5世は妻の死を非常に悲しみ、それ以降は再婚もせず死ぬまで喪服を着て過ごしたそうです。
ヨーロッパ各地に広がるカール5世の家族たちはみな、それぞれの仕事をこなしながらもカール5世の帝国統治やスペイン統治を支えていました。
広すぎるカール5世の帝国は、カール5世ひとりでは統治できませんでした。
彼の家族は、精神的な支えであると同時に、帝国そのものを支える存在でもあったのです。
重すぎる責任を背負ったカール5世がどれだけ救われたかは、想像に難くないのではないでしょうか。
偉大な皇帝が選んだ終の棲家
偉大な皇帝は、1556年までに皇帝位を含むすべての位から退位します。(正式な皇帝の交代は1558年に帝国側で承認)
全てが退位のタイミングではありませんが、最終的には両親から継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ2世へ、父方の祖父マクシミリアン1世から継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に引き継ぎました。
彼が退位を発表した1555年までの晩年は、カール5世の人生において最後の打撃でした。
生涯のライバルであったフランソワ1世は1547年に既に崩御しており、フランス王位はアンリ2世に移っていましたが、ハプスブルク家への攻撃の手は緩むどころか強まっていました。
カール5世は神聖ローマ帝国領のメッツを奪われてしまい、奪い返すこともできませんでした。
そして彼が皇帝位についてから生涯をかけて引っ込めようと叩き続けたルター問題がこの年に決着します。
アウクスブルクで開催された帝国議会において、ルター派プロテスタントが正式に認められました。
これをアウクスブルクの和議(宗教和議)と言います。
キリスト教世界の宗教統一を目指したカール5世の夢は潰えました。
歴史的な宗教和議から一か月後、ブリュッセルにおいてカール5世の退位式が催されました。
その場には、嫡子フェリペ(フェリペ2世)、弟フェルディナント(フェルディナント1世)、姉エレオノール、妹マリアがいました。
その中で彼はこのように述べたと言われています。
私が帝冠を得ようとしたのは、もっと広い領土を支配するためではなかった。それはドイツと私に属する国々に安寧を与えるためであり、キリスト教世界全体に平和と融和をもたらすためだった。(江村 洋 2013, p.354)
私はドイツへは九度、スペインへは六度、フランスへは四度、アフリカとイギリスへは二度ずつ渡り、また去った。(江村 洋 2013, p.354)
これまで帝国のため、国家のために身命を賭し、全力を傾注してきたにもかかわらず、我が思いは成らなかった。今私は疲労困憊している。(江村 洋 2013, p.355)
長年ヨーロッパ中のモグラに悩まされ、持病の痛風にも悩まされたカール5世はついに、引退を決意したのです。
引退後のカール5世は、スペインのトレド西方にあるユステ修道院に居を移します。
それが、カール5世の終の棲家でした。
とはいえ、ただただ祈りに身を捧げるだけの日々を過ごしたわけではなく、スペインの国事やローマ教皇やフランス王の動向に関する報告などが毎日彼のもとに届き、息子フェリペ2世からはしばしば父カール5世の判断を仰ぐ書簡が舞い込んでいたそうです。
そして引退から2年後の1558年9月21日、最愛の妻の遺品である小さな象牙の十字架を胸にしながら、カール5世は眠るように息を引き取りました。
彼を支えた姉は同年2月に、妹は同年10月に亡くなりました。
カール5世が最後に修道院に入ったのは、生涯のライバルフランソワ1世もいなくなり、プロテスタントとの融和も失敗に終わり、もう、ひとりのカトリック教徒として神の前で祈りを捧げて人生を終わりたかったのではないかと、私は考えます。
最後まで報告や相談を受けてはいたものの、それまでヨーロッパを飛び回っていた生活とは正反対の、静かな、祈りの時間を過ごし、最愛の妻の元へ旅立ったのではないでしょうか。
カール5世は何を成し遂げたのか
ここまで、カール5世の人生、彼が直面したモグラたち、彼を支えた使命感・家族、終の棲家まで見てきました。
では、最初の問いに立ち返りましょう。
カール5世は、何を成し遂げたのでしょうか。
中世から近世に移行する激動の時代、彼はその双肩にヨーロッパの秩序を背負い、その均衡を保とうとしました。
一国の君主ではなく、キリスト教世界全体を見ていたからこそ、少なくともヨーロッパにおいて、カール5世の人生は、征服によって自らの領土を拡大し続けるようなものではありませんでした。
もちろん、イタリア戦争やチュニス・アルジェ遠征、プレヴェザの海戦など、戦いも勃発していました。
一概に、バランスを取るだけだった、とは言えないでしょう。
でももし、彼がいなかったら、キリスト教世界はもっと内部での争いが絶えなかったかもしれません。
オスマン帝国が、さらにヨーロッパ深くまで進出していたかもしれません。
そうじゃなかったかもしれません。
カール5世はカエサルやアレクサンドロス大王のように、征服戦争をしかけて領土を拡大していません。
カール5世はクフ王が建造させたエジプトのピラミッドのような建築物も残していません。
カール5世はカール大帝(シャルルマーニュ)のように西ローマ帝国の再建を果たしてもいません。
でも、
カール5世は、キリスト教世界を守り抜いたのではないでしょうか。
中世から近世に移行する難しい時代に両親や祖父から広大な領地を引継ぎ、外側からも内側からもその秩序と平和が脅かされる不安定な時代に、神聖ローマ皇帝として。
彼はすべてのモグラを引っ込ませることはできませんでした。
ルター問題は最終的にプロテスタントを認めることになり、フランソワ1世との戦いにも決着はつかず、オスマン帝国から地中海の覇権を奪い返すこともできませんでした。
それでもカール5世は、皇帝である限りモグラを叩くことをやめませんでした。
カール5世が成し遂げたのは、新しい世界を作ることではなく、変わりゆく世界の中で、自分が守るべきと信じたキリスト教世界を守り抜いたことなのではないでしょうか。
(もしも)もし第2代ローマ皇帝ティベリウスがカール5世の右腕だったら?
ここで少し、もしもの話をしてみたいと思います。
広大な領土を持ち、そのあちこちでモグラが顔を出し暴れまわっている状況で、カール5世が目指した統一されたキリスト教世界は実現できませんでした。
では、そんなカール5世に、超有能な右腕がいたらどうなっていたでしょう?
超有能な右腕、として適任ではないかと考えたのが、第2代ローマ皇帝ティベリウスです。
彼は史実においてはローマ皇帝。つまり帝政ローマのトップであり、誰かの右腕ではありません。
でも、私の解釈ではティベリウスは史上最強の右腕だと思っています。
ティベリウスについての詳細はこちらの記事または、以下のYoutube動画をご参照ください!
皇帝になる前から軍事面でも前線で軍を率いて戦った経験があり、皇帝になってからは無駄な征服戦争を行わずに防衛線を強化し、行政官として広大なローマ帝国の統治制度を維持可能なものに整えた超有能人材。
もしティベリウスがカール5世の右腕だったら、カール5世の負担を大きく減らすことができたのではないでしょうか。
- カール5世が負けた無謀な戦いを避けることができた
プレヴェザの海戦やアルジェ遠征は、そもそもやらなかったか、もっと有利な方法で戦えたのでは? - カール5世が注力するモグラを厳選できた
敬虔なカトリックであるカール5世にルター問題を任せ、オスマン帝国やフランスとの戦いをティベリウスに任せられたかも?
中世から近世への過渡期という激動の時代、カール5世が一人で背負ったキリスト教世界の世俗部分は、ティベリウスに任せることができたんじゃないかな、
そうだったら、カール5世が目指した世界をもしかしたら、実現できたかもしれません。
そしてティベリウスは、優秀な皇帝のもとでその最強の実務力を発揮できたかもしれませんね。
スペイン王カルロス1世としての治世
さて、ここまではほとんど、神聖ローマ皇帝のカール5世を見てきました。
私が解釈した彼の人となりは、ほとんど語ることができました。
でも、絶対に無視してはいけないことが、彼の治世にあったということは言っておきたいと思います。
それが、新大陸の征服です。
ここまで見てきたヨーロッパでのカール5世の戦争とは性格の異なる大規模な制服が新大陸で進んでいました。
新大陸においては、アステカ帝国やインカ帝国がスペイン勢力によって崩壊しています。
これは、征服戦争というよりほかありません。
元はカルロス1世の祖父母の治世から始まった新大陸への進出を、カルロス1世も引き継ぎました。
カルロス1世即位時のスペインの拠点はカリブ海にある程度だったのが、治世中にメキシコや中央アメリカ、アンデスの広大な地域へスペイン支配が急速に拡大しました。
コンキスタドールであるコルテスは、カルロス1世からアステカ帝国征服の命令を受けたわけではありません。
現地で独自に征服を進め、カルロス1世は後にこれを承認し、制度化していきます。
インカ帝国に関してはピサロが事前に探検し、王に征服の許可を得てから征服します。
インカ帝国のアタワルパを捕らえ処刑し、インカ帝国の支配構造を利用してスペインによる支配を拡大していきます。
少なくともカルロス1世が即位した時点で、その治世中にこれほど広大な地域がスペインの支配下に入ることが予定されていたわけではありません。
本人の意思とは関係なく、新大陸の領土が増えていくような、そんな状態だったのかもしれません。
しかし、実際に彼の治世において、コンキスタドール(コルテスやピサロ)が王の想定を超えていたとはいえ現地の帝国を征服し、残虐な行為を働いたのは事実です。
とはいえカルロス1世はそれを傍観していたわけではありません。
ドミニコ会士であるラス・カサスなどが、征服した土地にいた人々が虐待されている、とカルロス1世に告発し、それを受けて王は1542年にインディアス新法を制定します。
それは現地の人々に対する奴隷制の抑制やエンコミエンダ制(征服者などに先住民から貢納や労働を受ける権利を認める仕組み。非常に苛酷な搾取に繋がった)の規制を進めたものです。
ただし植民者の猛反発を受けて、一部は撤回を余儀なくされてしまいました。
カルロス1世は、スムーズではなかったものの、現地での苛烈な支配を規制しようとはしていました。
カール5世はスペインが新大陸を征服した、まさにその時の王であったということは、キリスト教世界の守護者であったカール5世の紹介として残したいと思います。
キリスト教世界を背負い、家族に支えられた偉大な皇帝
16世紀前半を生きたカール5世。
両親や祖父からとんでもない広さの領地を相続し、宗教問題も政治問題も含めヨーロッパ中の問題に対処し、最後は自身の悲願を成し遂げられず引退し修道院で亡くなりました。
派手さはない人生でした。
ひたすら耐え忍ぶような、そんな人生だったように思います。
でも、その周りには家族がいました。
彼らは、政治的にも、精神的にも、カール5世の人生において大きな支えであったことでしょう。
皆さんは、カール5世は何を成し遂げたと思いますか?









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