ノラアメリカって建国時から君主制じゃなくて共和制だったんだよね?結構珍しい感じがする。



あれ、ノラ知らないの?アメリカにも皇帝がいたんだよ?



アメリカの皇帝?聞いたことないよ。独立戦争の後はジョージ・ワシントンが初代大統領でしょ?



じゃあ今回は、アメリカ唯一の皇帝を紹介しようかな。
合衆国皇帝 ジョシュア・ノートン
アメリカ合衆国は18世紀にイギリスから独立後、初代大統領にジョージ・ワシントンが選出され、建国時から共和制で運営されています。
つまり、君主制ではないんです。
いや、そんなこと知ってるよ、って?
でも、そんなアメリカ合衆国には自身を皇帝とした男がいました。
その名は”ジョシュア・アブラハム・ノートン”。
ジョシュア・ノートンの生まれ
彼は現在のロンドン生まれのイングランド人。
1818年生まれであるという説が有力ですが、確かな生年月日はわかっていません。
幼少期は南アフリカのケープタウンで過ごし、1845年後半にアメリカ・ボストンに渡ったとされています。
父はジョン・ノートン、母はサラ・ノートンで、母親は裕福なユダヤ人商人の娘でした。
皇帝になるまで
父の死後、遺産を相続したとも、自らの事業で財を築いたとも言われています。
彼はジョシュア・ノートン会社(不動産・輸入業)を起こしひと財産を築きました。
そのときに彼が死ぬまで過ごすサンフランシスコに移住しています。
その後、米の投機に失敗し多額の負債を抱え、その負債の原因が商人にあると裁判を起こすも敗訴し、1858年には破産宣言を出しました。
破産宣言をするまでには、サンフランシスコの税徴収官選挙に立候補して落選したり、米国下院議員への立候補を表明したりしており、政治への関心が伺えます。
ですが、破産を機にノートンは一時的に行方不明となりました。
後に皇帝を名乗るようになったため、この頃に精神状態が変化したのではないかと考える研究者もいます。
皇帝としての舞い戻り
1年ほど行方不明だったノートンは突如としてサンフランシスコに舞い戻り、当時の政治体制を批判し始めました。
政治を正常化するには絶対君主制の導入が必要であると述べ、帝位請求活動に勤しむようになりました。
1859年には即位宣言まで行います。
彼は自身を合衆国皇帝ノートン1世とし、サンフランシスコの各新聞社に手紙を送りました。
ほとんどの新聞社はいたずらとして取り合いませんでしたが、San Francisco Daily Evening Bulletin紙はジョークとして皇帝宣言を紙面に掲載しました。
彼は合衆国皇帝に加えて後に、メキシコの庇護者という称号も追加しています。
多くの「勅令」
ノートンは帝位請求時から一貫して、当時の政治体制が不完全なものであり、正す必要がある、という信念をもっていました。
この信念に基づき、当時の政府や軍に対して多くの指示を出しています。
(政府や軍に対するほぼすべての「勅令」は無視されています)
議会制に対する嫌悪感は強く、1859年にはアメリカ合衆国議会の解散を命令しました。
もちろん当時の政治家たちは全く意に介さず、無視しました。
それをノートンは”謀反”ととらえ、「帝国」軍に対して政治家たちを一掃するように命じました。
もちろんこれも合衆国軍から無視され、ノートンの勅令もむなしく、政治が変わることはありませんでした。
優れた先見の明
ノートンの提言はほとんどが無視されましたが、そのいくつかは時代を先取りした急進的なものでした。
今見てみると、19世紀にこんな考えを持った人がいたのか、、、と驚きを覚えます。
そのいくつかを紹介しましょう。
- あらゆる汚職や不正に反対
- 移民(中国系移民、アフリカ系移民)や社会的マイノリティ(女性、先住民)への差別や暴力の反対
- 多様な宗教に対する寛容な姿勢
- 公共の福祉を高める技術革新の推進者
特に、中国系移民への暴力反対に関してはこんな逸話があります。
ある日、ノートンが中国系移民が集まる地区を訪れると、中国系移民に対する白人のデモに出くわし、白人が中国系移民をリンチしようとしていました。
それを見たノートンは移民と白人の間に入り、祈りの言葉を唱えました。
その姿を見た白人たちは自分たちの行動を恥じ、撤退しました。
今でこそ、差別は良くない、という意識が醸成され始めましたが、これは19世紀。
当時はKKKが結成されるなど、人種差別が社会に深く根付いていた時代でした。
その時から、マイノリティや女性に対する擁護意識があったというのは、驚きとともに畏敬の念すら覚えます。
また彼は、後に建設される”San Francisco-Oakland Bay Bridge” (Bay Bridge)の建設を新聞布告により提言していました。
彼の「治世」では実現しませんでしたが、彼の死後1933年に建設が開始され、1936年に開通しました。
San Francisco-Oakland Bay BridgeのWikipediaには、この橋の歴史の一番最初にジョシュア・ノートンの布告の話が書いてあります。
サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ
市民に愛された「皇帝」
合衆国政府からは総スカンを食らったノートン1世。
でもなぜか彼は、サンフランシスコの市民たちから愛されました。
そんな彼の、皇帝としての生活を見ていきましょう。
下宿に居を構える
合衆国皇帝ノートン1世は、サンフランシスコの下宿「ユーレカ・ロッジング」に居を構えました。
皇帝なのに、下宿なんだ、、、と思いますが、破産してお金がなかったのでしょう。
この下宿の部屋はわずか3畳ほどで、簡易ベッドとテーブル、洗面器があるだけの、1泊50セントの粗末なものでした。
この50セントの宿泊費も、かつてのビジネス仲間やフリーメイソンの仲間(ノートンはフリーメイソンの会員でした)が善意で支払ってくれることもありました。
身だしなみ
このように「皇帝」の生活はかなり質素でした。
ところが、彼は礼儀作法や身だしなみには強くこだわりました。
帝国としての威厳を守ろうとしたのでしょうか。
彼は、米軍基地から寄付された軍服を着用し、常に杖を持ち歩いていました。
公式の場ではそれに加えて、特大の金の勲章をつけ、ビーバーの皮製のシルクハットに羽飾りを挿していたといいます。
上着の下襟には、親切な花屋から送られた売れ残りのカーネーションを挿していたそうです。
独自紙幣の発行
彼はお金がありませんでしたが、皇帝として独自の紙幣を発行し、その紙幣を使って生活していました。
もちろんその紙幣は有効なものではありません。
でも、サンフランシスコの人たちはその紙幣を受け入れました。
額面では50セントから5ドルまでの紙幣でしたが、今日ではその希少性からオークションで1000ドルを超える値がついたとも言われています。
庶民感覚を忘れない
また、皇帝を名乗りながら驕ることはなく、庶民感覚も忘れませんでした。
彼は定期的にサンフランシスコの街を”見回り”、公的サービスやインフラが正しく整備されているかを確認していました。
税金や水道料金が高すぎると感じたときや、道路や路面電車が適切に維持されていない場合、彼はそれらについても布告を出しました。
(実際にこの布告が実行されることはありませんでしたが…。)
愛されエピソード
ここで、市民から愛されていた「皇帝」のエピソードを2つ紹介します。
あるとき、セントラルパシフィック鉄道の食堂車で食事をしたノートン一世。
鉄道会社は(当たり前ですが)「皇帝」に支払いを請求しました。
この鉄道会社の対応を人々は批判し「皇帝の勅令」によって鉄道会社は営業停止命令を受けました。
市民ももちろんこの「皇帝の勅令」を指示。
反響に驚いた鉄道会社は「皇帝」に対して金色の終身無料パスを奉呈し、謝罪しました。
「皇帝」が一時的に警察に逮捕された、という話をします。
当時サンフランシスコには、警察官のアルマン・バルビエという人物がいました。
彼はなんと、「皇帝」を”浮浪罪”で逮捕したのです。
その罪に根拠がないとわかると次は”精神異常”の罪で逮捕し、精神病の治療を受けさせようとしました。
これに怒ったのが地元の新聞や市民たち。
バルビエの行為を卑劣であり、暴挙であるとし、痛烈に批判しました。
警察署長のパトリック・クロウリーは「皇帝」を釈放し、謝罪。
「皇帝」はこの”過ちを犯した警官”に対して帝国の赦免状を発行しました。
これ以降、警察官たちは「皇帝」とすれ違う時には彼に敬礼するようになったそうです。
また、1870年の国勢調査ではジョシュア・ノートンの職業欄に”皇帝”と記されており、少なくとも、当時の公的記録にも“Emperor”という職業名で記録されていたことになります。
「皇帝」の最期
「皇帝」ノートン1世は、1880年1月8日の夜、討論会に向けて歩いている途中で倒れ、亡くなりました。
その日は雨が降っていたそうです。
いくつかの新聞で追悼記事が掲載されました。
記事の中でジョシュア・ノートンは確かに「皇帝」として追悼され、またその人柄を称賛されました。
ニューヨークタイムズ紙は「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」と記しています。
亡くなった時、彼が持っていたお金は小銭でたったの5,6ドルだったそうで、それ以外に遺品はありませんでした。
彼は市の費用で貧困者として葬儀が行われるところでしたが、市民から寄付が集まり、市費ではなく葬儀が執り行われました。
その葬儀の参列者は1万人とも、3万人とも言われています。
彼の墓石には
NORTON I
EMPEROR OF THE UNITED STATES AND PROTECTOR OF MEXICO
「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」
と記されています。
一方、最新の研究では、彼の最期については少々誇張されているのでは、とも言われています。
彼の葬儀に参列した人は1万人とも3万人とも言われたと言いましたが、実際は、遺体安置所に最期のお別れに来た人が1万人程度で、最終的に墓地まで連れ添ったのは30人程度で、葬列もわずか3台の馬車だったそうです。
2マイルの道を人が埋め尽くした、というのは文章引用時の誤解だった、というのが最近の史料見直しで有力視されています。
ノートン1世 その人生
約60年の数奇な人生を生きたジョシュア・ノートン。
いや、合衆国皇帝ノートン1世。
自身を皇帝と称し、皇帝として生きた彼の精神状態については様々なことが言われてきました。
破産して一時的に行方不明になった時はうつ病だったのではないか、とか、皇帝を名乗り始めた時には統合失調症だったのではないか、と言われたりしていました。
近年最も有力なのは「妄想性障害(Delusional Disorder)」と言われています。
とはいえ、当時そういった診断をされたわけでも、科学的な調査をされたわけでもありません。
それに、彼は自身を皇帝としてからの振る舞いは、非常に社会的でした。
彼の演説はユーモアや社会批評を含み、市民とも積極的に交流していました。
そして彼は人に危害を加えませんでした。
皇帝を自称しながら、暴力に訴えなかったのです。
そして、皇帝は街を愛し、人々の暮らしが良くなることを本気で願っていました。
だからこそ、そんなノートン1世を市民は愛し、サンフランシスコの町全体で彼のいわば「皇帝ごっこ」に喜んで付き合ったのです。
一人の”風変りな市民”として受け入れていたのです。
彼の皇帝としての生活は、彼の病気だけではなく、彼のもともとの人格や性格、19世紀のサンフランシスコの空気、文化が組み合わさって成り立ったものでした。
彼の行動は、歴史上の”本物の”皇帝たちとは違い、政治的には歴史に大きな影響を残した人物ではありませんでした。
でも、後の文学作品やBay Bridge、著名な小説家マーク・トウェインなど”サンフランシスコ文化”には大きな影響を残しました。
ジョシュア・アブラハム・ノートンについてはこれからも研究が続いていくでしょう。
新たな見解が出てくるのが、楽しみですね。
もし彼が今もどこかでサンフランシスコを見下ろしているなら、
市民に愛された「皇帝」として語り継がれていることを知って、少し照れくさそうに笑っているのかもしれません。



歴史に影響を与えなかった、市民に愛された皇帝…。
なんか、不思議な人だったね。



そうだね。彼の行動は、時代と場所が違えば”ただの妄想だ””変人だ”と切り捨てられてしまったかもしれない。
でも、19世紀のサンフランシスコは、それを受け入れ、歴史として残した。
”愛すべき変人”とでも、言おうか。



なんか、かわいい人だったのかもなあ。



ふふ、そうだね。






コメント